縁起とは何か、空とは何か。天と地がひっくり返るというその意味は

ガウタマ(ゴータマ)シッタールダ(シッダータ)

のちに仏陀(悟りを開いた人)となり
釈迦と称される、仏教の開祖

彼が苦行の果て 菩提樹の下で開いた悟り、それは
全てのことは「関係性」で成り立っている
(個で成立する存在などない 個別の実体などない)ということ。

自分という存在は 単体で存在しているわけではない。
「自と他」の差も違いも(実は)ないのです。

これに気づいている人(知識だけではなく 自らの実感をもって)は
現在 結構な数(と言ってもまだまだ圧倒的少数)いるのではなかろうか。

かくいう私自身もそうで、はっきり記録していないけれど(人生の一大意識転換時なのに 笑)
2007年の前半のことと記憶しています。 予兆は2006年からありました。
mixiやアメブロでこの話は何度か書いているけれど

ぼんやり自宅で窓の外、夕焼けを眺めている時だった。
ぼーっとしていた 意識がちょっと飛んでいたところへ
それはやってきた。 気づきのほうが私の頭の中にやってきたわけで
「思考の末辿り着いた」のではなく
「ゴールはもともとここにある」という感覚がやってきて
その後、自分の顕在意識がそれを理解した。
「それ」「ゴール(こたえ)」は 言語ではない、
それそのものを感じたことで それを後から自分で言語化しているという

私が見ているものは自分の内側。
私の外側に実体はない(見えている空や道路などはただ私の感覚器官がそのように映像化しているだけ)
私そのものにも実体がない。
私、と思っている(感じている)「意識」なんだ
意識が世界なんだ 宇宙なんだ…

一瞬にして「わかった(実感した)」

個々人の体験、感覚はそれぞれだろうから このことに気づいた人たちの
体験、記憶も それぞれであって

至福というより 「私」「鈴木弘美(戸籍名)」という個人ではなく、その本質の部分に触れた
という 今もって ちょっと不思議な
しいていえば、閃きのでかいの、とでもいえばいいのか、

頭の中全体がそれそのもので充満して(そんな感じ)
今まで意識していなかった「意識」と出会ったような。

こんな、細かいことを知っても 他の人の参考にはほとんどならないかもしれない
こういうものだ、と決めつけたり こういうことを渇望、切望することは
むしろ「逆効果」になるから それだけは 言っておくけれど
(なんでも 真剣なことほど 楽しんで読んでいただきたい 丸ごと信じるのではなく)

これに気づいてしまった以上
外に世界があって、地球の上に自分が立っていて 地球と自分は別の個体で、
他人と自分も別の個体で…
そのような認識は私にとって「現実(リアル)」とは もう言えない

単に、そういう「現実味(リアリティ)」を感じているだけ、
私の「意識」の話、になってしまう。

もちろん「現実」とか「非現実的」とか変わりなく言うし
社会性がなくなるわけでもない。

「私 自分」が 吹っ飛んだ時(どこかへ行った時)
感じる世界があるけれど
(瞑想で様々な世界を垣間見る話、聞きますよね)

そこで 美しい物を見ても、神がいても 光を感じても
悪魔がいても 天使がいても それが「真実」だとは言えない
そっちが、「上位」の世界とも限らないわけです。

意識自体には「私」とか「自分」とか「自他」の違いはなく
それが我々の本質であって

それを「言語化」したり「認識」「認知」しているのが
物質でいえば「脳」であり 非物質でいえば「心」
と いうことになるのでしょうか。

気づいた後しばらくの「ポカン」状態 ええっ…

今まで頑張って外側に語りかけていて うまくいかなかった理由も
よくわかり(伝わらない、と思っていくら吠えても、伝わるわけがないと)
笑ってしまって ああ、問題なんて 実際には何もないんだと
しばしの 安堵感が 身を包んだわけですが…

違う世界 次元へ移動するって こういうことかと

裏と表。天地がひっくり返った、
内と外がひっくり返った そんな感じ。

見えているものが変わるわけではない。世界が変わるわけではない。
感情だって相変わらずだけれど

自分が そのように「受け取っている」「感じている」だけ

過去の記憶(データ)を使って
自分が見ている、聞いている、嗅いでいる、味わっている、触れている(主体的)
見られている、聞こえている、嗅がされている、味わわされている、触れられている(受動的)…

そのように「感じている」
この五感を通して感じていることを 私たちは「リアリティ」と称している。
第六感、を感じているのも、「体感」つまり身体感覚であって
「身体」抜きに 精神だけを「感じる」ことは私たちには 出来ないはず。
少なくとも「起きている」時は。
時空間をしっかりと認識できる世界を意識出来ている時は。

身体を使うこと、体感 実感 体験 それが
「自分自身」にとってのリアリティであり
リアリティがあること、が
自分にとっての「現実」となるわけ、なのですね。

(この自分だけのリアリティ、をどのように
他の人たちと共有出来るか、自らの行動に移すか、が具現化であり
実装化 夢を叶えるということなのですが)

では、気づいただけで

その後の人生は 何も問題なく
スムーズに流れていくのか…と言えば またそれも違う話であって

知っている、体感しているだけで そのまま
立派な人格になるわけでも 超能力が使えるわけでもなく

空や 縁起を 語れて 説明出来る人が、
自分自身の 日々に生かして、実践しているか、と言えば
必ずしもそうとは言えないのが 人間の面白いところで。

自らの人生で実践することが 私のやりたいことそのものであり

それを伝えるためなら 自分の過去の経験も人の話も
使わない手はない、なんでもありなのです。

「ない」から「あり」の世界へ
皆さまを引き続きお連れしようと思っております。

ご興味ある方、どうぞお付き合いくださいね。

続く…https://www.youtube.com/watch?v=ezS-Fxc_c4A&t=27s

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